法華講支部指導教師指導会の砌(平成3年3月18日)

御遺命の戒壇に関するご指南(資料)
 本日は、平成二年度の全国の指導教師の集会を開いたのであります。これは昨年も行いまして、その時点における指導教師として必要な面を、宗務院として、また私からも何らかの指導の方向を示してきたのであります。本年度も、どうしてもそれを開きたいというように考えまして、ここに開催したのであります。
 


 特にまた昨今は、色々な宗門の事情が前とは極めて違った形が出てきておりますので、指導教師以外の全国の寺院の住職等も、志のある人は来てよろしいということにいたしました。それで、後ろのほうにかなりの寺院住職が来られておるようであります。これも憂宗護法の念の表れであると思いまして、私としても大変うれしく、また有り難く思うものであります。
 


 さて、それぞれの寺院において法華講を結成すると、その住職が指導教師になって、所属の講員の信心、行学等についての指導を行い、そして親睦、団結を図り、また広宣流布に向かっての講中活動という、極めて大事な問題に関する全面的な指導を行うのが指導教師の役目であります。
 


 これは申すまでもないことですけれども、そこに僧侶の、本当の仕事というものが存するわけでありまして、その自覚を願うと同時に、その様々な問題に関して、ここで再びよく考えたいと思うのであります。さらにこのあとの質問会等においては、それらの事柄の目下の現況についての、大切な、また、どうしてもはっきりしなければならないことがあるならば、遠慮なく質問をしてもらって、充分な理解を得た上で指導教師としての任務を尽くしていっていただきたいと考えるのであります。
 


 申すまでもなく、今申しましたように、僧侶が自らの信心修行の境界をもって信徒を導き、そして広宣流布に向かっての御奉公を自ら行っていくということが最も大切なことでありまして、その精神において今日の法華講の姿が存するわけであります。要するにその姿は、信心を根本として行学の二道に励む、行学の二道の中においては、いわゆる自行と化他ということであります。正直な心をもって、正直に日々夜々において御本尊様にお仕え申し上げ、五座三座の勤行をきちんと行い、またそれを講中信徒の模範として示していくことが大切である。さらに、それを行わしめていくと同時に、大聖人の仏法を学んで、その正しく勝れた教えの内容を多くの人に知らしめて、社会乃至国家を善導していくという、その一番の元になる活動の中心が指導教師である皆さん方であります。
 


 そのような点から、是非、法華講の発展ということを常に心掛けていただきたいということを望むものでありまして、これは昨年も申し述べたとおりでございます。
 


 すべて、講中の信徒の姿は指導教師の信心の鏡であると、私は思います。指導教師の信心がおかしければ、また不熱心であるならば、信者もまた不熱心である。百年経ってもそれは変わりません。もし指導教師が一念発起して、真に行学の二道、自行化他、そして立派な法華講を作り上げようという、切実な志を持って日夜に願い、祈念し努力するところにおいては、必ずその寺院において立派な法華講が育っていくものと、私は確信をするのであります。ですから、あくまでその元は指導教師にあるということを、よくお考えいただきたいのでございます。
 


 さて、今日の状況は、色々とありますけれども、まず基本的には指導教師の人々が、自分に縁のある法華講の人達と本当に一体となって法を護り、また修行し、そして広布に向かっての折伏行を行っていくことが大切であると思うのであります。これは当然のことである。今までも常にやらなければならないことであり、と同時に今日、今後の意味においてもこの考え方が基本であり、中心であると思います。
 


 そのようなことの中において、ある人から私の所へ投書がありまして、遺憾ながら、ある御僧侶のおっしゃっておることが、一遍はこのようにおっしゃったが、その後、またもう一遍、事情を聞いたら別のことをおっしゃるというようなことで、私としてはどうしてよいか判らないというような趣旨の手紙がまいりました。そのほか色々な状況を知らせるものも時々まいります。
 


 私は、皆さんの前でこのようなことを言いたくはないけれども、やはり僧侶は信徒に対し、本当に正しい心をもって接してもらいたいと思うのです。相手の信徒も色々であって、狂っておる人もあります。そのような人は、僧侶がいくら正しい気持ちをもって接し、教導しても、なおかつ悪口を言い、様々なところで色々と、法を破るような姿も出てきます。これはもう、仕方がありません。それでも機会があれば戒めることは、もちろん必要だと思います。しかし、どうしても直らない者は、そのような者をそこに置いておくことが毒になるとすれば、ほかの人の信心の妨げになる場合も多々ありますので、これは指導教師として適切な、やはり慈悲の上からの正しい指導的処置をしなければならないと思います。
 


 しかし、正しい信者の考え方を、自分の色々な都合やわがままなど、僧侶のほうに曲がった心があって、それによって信徒の信頼を失くすというようなことがあるならば、これは僧侶としてまことに恥ずべきことだと、私は思うのであります。
 


 そのようなことはないと思うけれども、やはり私は法華講の方針として、否、それ以前に大聖人様の弟子としての我々の貫くべき道は、あくまで正直ということが根本だと思っております。私はこのことを弟子達にも申しておりますけれども、大聖人様御自身が「正直捨方便の法華経」だとおっしゃっているのだから、一切の方便を捨て、成仏得道の大直道である法華経をもって一切衆生に勧進しなければならないのであります。
 


 したがって、その「正直捨方便」が、我々の常に忘れてはならない方針であります。『当体義抄』に


  「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は(乃至)本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(全集五一二ページ)


とお示しでありますが、この「本門寿量の当体蓮華の仏」とは、すなわち正しく清らかな信心によって即身成仏ができるのです。もし、頻繁に嘘を言って、「嘘も百遍言うと本当になる」と言っているという噂があっちこっちから聞こえてくるが、このような考え方で指導されている人は本当に気の毒です。平気で嘘を言って、そしてしかも「嘘も百遍言えば本当になってくるのだから、大いに嘘を言え」というのです。自分に都合のいいように何でも嘘を言い、嘘で塗り固めて相手をやっつけて、それで自分が正しいことを立証する。そのような形で、あくまで策略を駆使しながらやっていくことが妙法の振る舞いだなどということを考えていたならば、これはとんでもない大きな間違いだと私は思います。
 


 そのような考え方であるならば、どこの世界でも通用しません。謗法の社会に対してでも、そのようなことは通用しません。やはり、常に清らかな、そして自分自らが正直な心をもって人に接し、またその空気を作り上げ、雰囲気を作り上げていくことが大事である。そして、世間の人が、「ああ、この宗団の人達と接していると本当にすがすがしく気持ちがいい、このような宗教ならば自分自ら入りたい」という気持ちに自然になっていくようでなければ、本来はならないのです。
 
 

 それが、口を開けば「何だあれは、またあんなことをしている、またこんなことをしている。嘘ばかり言っている」と言われ、そして蛇蝎の如くに嫌われるような姿があるならば、それはどこかに狂いがあるのである。
 


 我々は大聖人様の弟子として、そのように思われたり言われたりすることは、大聖人の尊い御顔に泥を塗り奉っているのだという自覚を持たなければならないと思います。私自身、もしそうであるならば、たちどころに懺悔をし、大聖人様の御宝前に五体を地に投げてお詫びを申し上げます。
 


 しかし私は、常に願っておるとおり、言語において嘘を言った覚えはありません。全部、本当のことを言っております。したがって、仮にそのことを正直に言うことが自分にとって不利になることでも、本当のことを言います。あくまで真実は真実なのですから。そこがつい、都合の悪いことは嘘を言うというのが人間の通有性ですが、僧侶の中にそのような気持ちがあって、信徒と接すると、やはりそのような嘘の命を、信徒もお題目をあげているのですからきちんと見ております。そこに、あの僧侶は信用がおけないというような形が出てくる場合もあるのであります。
 


 要するに、正直を根本とした、本当の大聖人様の仏子としての人格を陶冶していただきたい、これが指導教師としての一番の元であると思うのであります。口先で偉そうなことを言っても、あるいはこれだけのことをしたと言っても、その根底において曲がった心があって、何でも物事を言いくるめて解決すればいいのだというような考え方は間違いだと思うのです。
 


 日蓮正宗の袈裟・衣を纏っておる者は大聖人様の弟子ですが、大聖人様御自身が「約束を違えず」ということをまたおっしゃっておるのです。つまり正直ということです。正直ということを実際の行動に表す場合、それは約束を違えないということなのです。いったん言ったことは絶対に行う。いったん誓ったことは絶対にやるし、いったんやらないと誓ったことはやらないはずなのです。
 


 ところが、お題目を唱えているにもかかわらず、前に誓ったことを平気で破る人もおります。考えてみれば、皆さん方も誰だか判るでしょう。約束をしたことは必ずきちんと行う。そしてどんなに不利なことでも、もし自分に間違っていたことがあるならば、正直に言ったらいいではないですか。そしてきれいになって、初めて堂々と前進できるということになるのであります。
 


 それを、「私はああいうことをしたが、これはちょっと隠しておこう」という、そのような根性が駄目なのです。正直ではないのです。やはり私は正直ということを根本として、どこまでも僧侶が大御本尊様のもとに、大聖人様のもとに一致団結するということ、そこに真の広宣流布の基が存するということを確信するものでございます。
 


 それから、今、色々な問題がありますが、たしかに池田名誉会長の昨年の十一月十六日の発言において、特に法主に対する蔑視・軽視の発言、宗門の僧侶に対する蔑視・軽視、これも充分認められるところであります。
 


 さらに五十二年路線ということに関して、あれ程誓い、あれ程日達上人に対してお詫びを申し上げたにもかかわらず、宗門に対する色々な形での批判とか、そのような考え方が出てきておるようであり、これが最近は特に露わになってきました。前回はあまりに正直にやり過ぎたから、あのように謝らなければならなかったけれども、今度は謝らないと言っているらしい。今度はそれだけ利口になったというような考えらしいので、そのような発言もこぼれてくるようであります。
 


 要するに、私が思いますのは、十一月十六日に現れた以外の色々な面でも間違いがあったと思うのであります。その一つは戒壇問題でありますが、日達上人も当時の創価学会の、あの破竹の如き折伏大進撃の中で色々な建設が行われ、その中で特に正本堂建立というような事態になり、これらを善導することに非常に苦慮あそばされたと思います。
 


 先般、創価学会からの質問に対して、私が比較的簡単に書きましたものを皆さん方にもお送りしました。私はあの中で、私自身が反省すべきこともきちんと書いておきました。皆さん方も、よく御覧になったでしょう。同時に、日達上人も、色々とおっしゃったけれども、その御本意はこうであったということを私は確信しております。それでそのような意味のことを大体、あそこに書いたわけであります。
 


 特に、池田氏の願いによって、昭和四十九年一月二日、正本堂建立の賞としての御本尊様の裏書が九月に行われております。これは表装してから書かれたのでしょうけれども、裏書としてお書きになるということは珍しいことです。しかし、それは池田氏の強固な願いによると思いますけれども、それに対して、あの中に「準じて」ということをはっきりお書きになっていらっしゃるのです。ここに私は、日達上人の御本意が存すると確信いたします。
 


 それに対し、池田氏等が、「正本堂はまさしく『三大秘法抄』の事の戒壇そのものである」と思い込み、また何としてでもそのように仕上げようとした形跡は歴然たるものがあります。だから、それはこの間もそのように書いたとおりであり、間違いないのです。これが色々な経過の中において、特に日達上人の訓諭の中で、そのようなことではなく、「現時における事の戒壇」であるということが言われました。
 


 では、よく考えてみると、これは常に思うことですが、大聖人様の『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇の御文は、絶対にいい加減なものではないはずなのであり、あの御文は一期御化導の終窮究竟の御文なのです。『開目抄』が大事だ、『観心本尊抄』が教学的にどうの、いや『法華取要抄』だ、『報恩抄』だ、『撰時抄』だと言うけれども、大聖人様の一期の御施化は三大秘法であり、その最後の本門戒壇、すなわち「事の戒法」ということは終窮究竟の御指南であります。
 


 それはまた、我々弟子檀那に対する、日本乃至世界全人類の妙法によるところの広宣流布、妙法によるところの真の成仏境界をこの世界に出現せしめんとするところの、その大慈大悲の御指南であると私は思います。皆さんもそう思うでしょう。それ以外の何ものでもないはずなのです。
 


 これが、もう出来てしまったのだということですが、まだまだ世界中に戦火は絶えないし、色々な民族があらゆる所に蜂起して、その中で様々な弾圧と抗争に明け暮れる世界の姿があります。宗教においてもそのとおりであり、日本一国においても、まだ様々な邪教が跋扈しておる。このような時において、大聖人様の妙法による一切衆生救済の御誓願が達成されたと言えるでしょうか。そのような馬鹿なことが、あるはずがないでしょう。
 


 もっと我々は地に足を着けて、一人ひとりが一歩一歩と大聖人様の御誓願達成に向けて前進し、たとえ一人の人にでも、真の仏子としての自覚を持たせ、即身成仏の大道を正しく受持せしめるところの道を開いていく、そしてお互いが異体同心の団結をもって、二人でも三人でもいいから、そこから進んでいくのだという信念を持って進むことが大切だと思うのです。
 


 しかるに、その目標がないとしたならばどうなるのか。実際上の目標がないとしたならば、今度は色々なことをやってもいいことになる。けれども、妙法を主体とするところの広宣流布ですから、そこには当然、戒という問題が具わっているわけです。その戒ということは「防非止悪」、要するに悪を止め、また善を勧めるという、三大秘法を受持し、自行化他の広宣流布に向かって精進することが善ならば、一切の謗法を止めていくというところに、止悪の姿があるわけであります。
 


 また、随方毘尼というような問題もたしかにあるから、世界広布という意味においては、そのような段階の中での適当な考えによる指示は必要でしょう。必ずしも日本の国と、よそのドイツやその他の国々との間で全部が同一でなければならないということはありません。そのようなことは常識上からも当然判ることです。
 


 そのような御指南が『開目抄』にもありますけれども、それらを適切な意味において拝して進んでいかなければならないわけですが、その在り方もまた大切なことであります。ですから、わがまま勝手に何でもいいということになっては、仏法は破れてしまうと思います。
 


 また、塔婆の問題も、宗門の考え方、在り方は全く古くて教条主義的であるというような批判を、最近、よく言っておるようですけれども、この教条主義ということも考えてみると大事なことなのです。教条を忘れて仏法の筋道がありますか。文・義・意という語がありますが、そのうちの文と義がなくても、意さえあればいいのだという考え方に執われて、そこに突っ走ってしまうと、これはその指導が「私は偉いから、私の考えによって、このように考え、ああいうふうに考え、何でもいいからやるのだ」というような形になってしまうと思います。
 


 やはり文・義・意の三つはそろえなければいけない。もちろん大聖人の御指南が根本です。その教えの中で種々の時代にのみ相応のお言葉があるとするならば、それはまた当然、その元である御仏意について信心を根本として正しく拝していかなければならないと思います。
 


 昨今の多くの信徒の人達の考え方において、いわゆる「宗教改革」というような言葉が最近、聞こえてきております。その改革の先は、宗門の坊さんの考え方などは古くさいから要らないだろうというような、最近の聖教新聞等の論調、論旨、様々な宗門に対する言い掛かりや批判は、そのような感じすら持つのであります。
 


 そのような考え方が果たしていいか、悪いかということについて、我々僧侶として考えてみたときに、やはりこれは、僧俗一致をもって大聖人の仏法を広宣流布していく上からみれば、大きな逸脱と思うのでございます。
 
 

 このような点も色々考えてみますと、たしかに今日、我々が考えていかなければならないことは多々ございますが、その基本は何かといえば、皆様方がそれぞれの寺院において、正しく法を護り、指導教師として法華講を正しく育成し切っていかれることだと思うのであります。
 


 これは、既に組織されている法華講の人達を正しく導いていくということは当然であるが、それと同時にまた、縁あって新しくその寺の直属信徒が出来たならば、本当に僧侶の道念をもってどこまでもその人達の正しい信心と幸せを考えてあげて、手を取るようにして導いてあげることが肝要だと思います。それこそ僧侶の考えていかなければならないことなのです。
 


 ところがそれを、「私は知らない、あなたは今までどおりにしていったらいいではないか、わざわざお寺へ来ることはないではないか」などというような冷たい態度でいるのは、これは僧侶として本当に風上にもおけない、僧侶の屑だと思います。
 


 たとえ一人の人にでも本当の信心を教え、即身成仏の境界を開かせてあげたならば、この功徳は実に大きいのです。三十人、五十人、百人、千人の人間に対して偉そうなことを言って、それで結局その人達を地獄に堕とすよりも、たった一人の人でも、僧侶の真心において導いていっていただきたい。
 


 私は最近、ある僧侶が自分のもとへ頼ってきた信徒の方に、その立場に同情し、その人の家へ行って一緒に勤行した、そして色々な資料をもって、よく宗門の現状の話をし、それによってその人が涙を流して喜び、そこにおのずから五十展転随喜の功徳が生まれているようなことを聞きました。実に尊いと思ったのであります。
 


 これは理屈や理論ではありません。いわゆる体をもって御奉公しようという姿こそ、指導教師として最も大切であるということを申し上げて、たいへん長くなりましたが、本日の言葉に代えたいと存じます。
 
 
(大日蓮 平成3年5月号 37~50ページ)
                 


 

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