本日は法華講連合会第二回青年部大会がまことに盛大に開催いたされまして、先程来、体験発表、抱負、激励等、まことに時に適った青年部の方々の信心の姿に接し、私といたしましても深く感銘いたすところでございます。特に一昨年開かれた第一回の青年部大会に対し、本日は本当に若い青年の方々のみでここに結集されておるというところに、私は二年前から一段と法華講が充実し、発展した実証であるということを感じまして、本当にこれは大御本尊様、大聖人様の御嘉賞あそばすところと拝察いたすのでございます。
青年ということの中には、世の中の経験が浅く、未熟であるという意味があります。また半面、非常に情熱をもって事に当たり、どんなことでも突き進んでこれを自ら体験し、実践していこうという青年の力がそこに存することも一つの特性と思うのであります。
その青年の方々の中には、やはり様々な苦しみがそこにあるということを考える次第であります。先程の女子の方の体験発表にもございましたが、様々な苦しみを乗り越え、そして真の仏法の功徳を体験なされたということを聞いておりまして、まことに深く感銘をいたしたのであります。
さて、法華経の譬喩品に
「三界は安きことなし 猶火宅の如し 衆苦充満して 甚だ怖畏すべし」
(開結二三三ページ)
という御文がございます。ここに「衆苦充満」とありますが、どういう苦しみがあるのかといえば、四苦・八苦と言われるものがあります。四苦というのは、生・老・病・死の四苦であります。それにさらに、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦という四つの苦を加えて八苦になります。
この内、あとの四苦のほうで特に青年の方々に縁の深い苦しみは五陰盛苦と求不得苦であると思うのであります。五陰盛苦というのは、少年期から青年の時代に差し掛かってきますと、そこに様々な欲望が増えてまいります。その欲望の中にも色々な種類のものがあって、おのずから生きていることの中に様々な五陰、すなわち色・受・想・行・識という色心の二法の上からの苦しみが逼迫してくるのであります。その結果として色々なものを求めていくが、なかなか求めることができないというために求不得苦、すなわち求めても得ることのできない苦しみを種々に感じてくるのでございます。
このように青年は、社会の経験が浅いことと同時に、また非常に大きな苦しみを毎日毎日の生活の中で体験をしていくという形があると私は思います。皆さん方一人ひとりがやはり何らかの意味で今まで随分悩み、苦しんでおるということを感じておるのであります。
しかし、その苦しみに負けてさらに不幸になっていく人、それから苦しみの本質を正しく理解して、その苦しみを敢然として正しく解決をしていく人、そのような二つに分かれると思います。
また、苦しみを解決する方法にも色々な方法がございます。色々な面での知恵を働かし、生活の工夫の上から自分自身を適当に調和し、また問題に対するところの様々な知恵を働かすことにおいてのそれぞれの悟りを得、自らをそれに正しく対処していくという姿があります。
しかし、所詮、凡智をもってこれらの問題を解決しようとすることは結局、自分自身の本当の解決にはならないのであります。それはなぜならば、我々の命がすなわち不可思議なる尊い命であるが故に、つまり迷いもあれば尊い仏の命も具わっておりまするから、自分自身が色々な面から考えて解決をしようとしても、それが本当に正しい解決にならない。言うなれば自分自身というものの本体が本当に解らなければ、真実の解決はできえないのであります。
その自分自身の本質、本体は何によるかということですが、これを悟られた方は仏様、すなわち釈尊であり、また御本仏日蓮大聖人の御指南によるところの教えであります。すなわちそれは、我々の命の当体が実に不可思議なものを持っておるけれども、それを一分一分、方便の形で説いた上においては、これはあくまで不完全である。それに対して、我々一人ひとりの命の当体を正しく説かれたのが釈尊の「四十余年未顕真実」として、方便を捨てて説かれたところの法華経であり、さらにその法華経の本体たる本門の法体、すなわち南無妙法蓮華経の五字・七字でございます。ですから南無妙法蓮華経の信心を根本とするところに自分自身の悩み苦しみの本源が、その時に応じて必ず正しく解決をされていく所以が存するのであります。
日々夜々において、一体自分はこの信心をしていて幸せなのだろうかというように、先程の体験発表にもありましたが、そのように思う人もあるかもしれません。あるいはこの信心を持っておることが非常に恥ずかしいというような、そのような臆した心で受持しておる人もありましょう。しかし、それはまだ信心が正しい大聖人様の御指南に至っていないのでありまして、その真の信心に住するとき、皆さん方のその時その時の苦しみの経験、悩みの経験、命の上からのあらゆる事柄がすべて妙法の当体として、真実の功徳として未来にはっきりと顕れてくるということを申し上げたいのでございます。
特にまた、青年の方は洋々たる未来を持っております。今、この青年の時に本当に学び、行じ、信行に邁進することが未来永遠の大きな功徳の元となってまいるのであります。もし今、この若い時の尊さを自覚しなければ、未来においては様々な不幸がそこに存するということが考えられる次第であります。
先程来、色々とお話がございましたが、たしかに本年は総本山開創七百一年という非常に大事な時期に当たっております。この時にいわゆる法華講連合会として打ち出された命題が奇しくも「折伏・実践の年」ということ、これを私は実に深い感激と感銘をもって、皆様方の尊い信心の姿を賞賛する次第であります。本年こそ、まさしく将来の開創八百年に向かっての第一年であるとともに、邪義を峻別し、正義の根本を顕していくところの年であり、その年の命題として折伏実践ということを打ち出されたところに、法華講の未来における素晴らしい信心発展の根本がそこに存すると思うのであります。
その折伏発展の中核をなす層が皆様方法華講の青年部であるということを、私は強く申し上げたいのでございます。青年こそ、あらゆる困難な問題をものともせずに突き進んでいくところの力を持った年代であります。法華講の折伏が成就するか否かは皆さん方青年部の方々の決意に掛かっておるということを、特に申し上げたいのであります。
そして我々は、また御本仏大聖人様の絶対の仏様としての大慈大悲と、その大利益を確信しなければなりません。すなわち大聖人様の御指南をそのとおりに正直に拝して、そして一人ひとりが正しい信心修行に邁進するところにおのずとその時その時に適った、苦楽ともに即身成仏の深い境界を、また功徳を実証し、体験することが必ずできると確信するものでございます。
大聖人様は建長五年四月二十八日に清澄山上において南無妙法蓮華経の五字・七字をお唱えあそばされ、と同時に妙法の正しい道を明らかにお示しあそばされて、念仏無間という法門をお説きになったのでございます。それ以来、邪宗邪義をはっきりと峻別するところに正法正義の道が存するのであるという御一生の御化導の上に、南無妙法蓮華経の題目がその弟子檀那等によって弘められてまいりました。その中において大聖人様は、法華経の経文の如くに三類の強敵が現れて様々な迫害にお値いあそばされ、刀杖の難、流罪・死罪の難等の一切を身に受けて、いわゆる経文を身に当ててお読みあそばされるところの真の法華経の行者としての大功徳をお示しになった次第でございます。
そこにおいて、大聖人様の御一身に久遠以来具わり給うところの妙法蓮華経の本尊を末法万年の一切衆生の成仏得道の大法としてお示しになったのが、佐渡の御化導以降、御入滅に至るまでの御指南であります。故に佐渡においては、『開目抄』という重大な御書において末法下種の主師親三徳の御境界を顕しあそばされ、また文永十年の『観心本尊抄』においては御自身の内証たる御本仏の妙法を大漫荼羅として、いわゆる常住の御本尊の当体をお示しあそばされて一切衆生救済の大法を顕されておるのでございます。
そこに題目から本尊の御化導がありますが、さらに弘安に至り、身延の御化導の中において本門戒壇の大御本尊を顕しあそばされました。すなわち本門の題目、本門の本尊、そして本門の戒壇という三大秘法の法体が成就されたのであります。
そしてこの本門戒壇の大御本尊様の意義は、すなわちまた、妙法によって邪法邪義を打ち破り、邪法邪義の害毒をことごとく浄化して、
「妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず」(全集五〇二ページ)
という、この御指南の如き心を持ったところの一切衆生によって建設される仏国土であります。そこに本門戒壇の深い意義が存するのであります。
ですから、まだ謗法の人々が非常に多く、世の中が邪宗邪義によって穢されており、多くの人々がその害毒によって不幸な姿を露呈しておる中において、たとえ本門戒壇の意義を持つところの建物が建てられたといたしましても、それが即、大聖人様の御遺命の完結では絶対にありえないのであります。
そこに我々日蓮正宗の僧俗は、大聖人様の御指南を深く体し、どこまでも大聖人様の御指南のままに素直に、正直に我々の信心の目標を定めることこそ大切であると思います。
もし既に大聖人様の御指南の目標が達成されてしまっており、終わってしまっておるとするならば、もはや御本仏の御指南による目標は我々の折伏の目的として全く存在しないことになります。果たしてこれでよろしいのでしょうか。そういう誤った考えは大聖人様の仏法における御遺命破壊であるということを、法華講の皆様方は深く、また正しく認識していただきたいのでございます。
我々の目標はあくまで御本仏大聖人様の御指南を正しく素直に拝し、その上から一切衆生の真の即身成仏の道をどこまで開き、実践していくところにあります。それが、我見によって仏法を私する考え方からするならば色々な解釈ができます。
正本堂という建物が出来たことにより、それはもう大聖人様の御遺命がそのままの形で出来上がっておるというような考え方が過去にありました。けれども、今申し上げたような意味において、これはまさしく誤りであるということを、私は今日、その時がまさしく来たことを感じつつ申し上げておるのであります。私は登座以来十年間、この問題に関しては、極めて重大事であり、時が来たらざるが故にこれを申し上げませんでしたが、やはりこのことを、自らの深い懺悔とともに、申しておくものであります。
仏法には悪口・両舌・妄語・綺語という言葉がありまして、これは十悪の内、口の四つの罪になっております。その内の両舌、すなわち二枚舌というのは、ある時にはこう言い、次の時にはこう言う、要するに自分の利益のために適当にその趣旨を変えるのが二枚舌であります。これはたいへん誤ったことであります。
しかし過去において、やはり仏法の展開の中における形で、どうしても誤っていたということがあるならば、その過去の誤りを誤りとしてはっきりと改めるということは、けっして二枚舌ではありません。これは仏法上の正しい懺悔反省に当たるのであります。
釈尊の教えの中にも方便と真実という意味があります。釈尊が方便教の中で色々に説かれましたけれども、最後に、
「諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以ってす。四十余年には未だ真実を顕さず」(開結八八ページ)
と説かれ、今まで説いてきたところはことごとく真実の教えではないということをもって、四十余年の教えを括られたのであります。
私もまた、登座以来、この御遺命の戒壇については、大事であるため一言も申さなかったけれども、今時、皆様方も『大白法』の号外で御覧になりましたように、このことを申し述べる時が来たことを決意し、あの中において深い反省をもって、過去における言葉は誤りであったことを示し、日達上人もまた、その尊い御指南の中において御本意をはっきりとお示しになっておることを、その教示書の中に挙げております。
そして最後に、尊いことでありますが、御本尊の裏書きにおいて、
「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日
総本山六十六世 日達 在判」
ということをはっきり示されております。ここに示される「準じて」ということは「なぞらえる」という意味であり、その詳細は教示の書に書いたとおりであります。したがって、我々は、あくまで大聖人様の御遺命の達成は未来にあることを思い、その根本の出発がこの総本山開創七百一年であることを知らなければなりません。
その時において法華講の皆様が、特に青年部の方々が結集されましたが、本年こそ大聖人の御遺命の達成に向かっての、いわゆる広宣流布に向かっての出発の年であるということをここに申し上げまして、今後における皆様方のますますの御精進と御健康を祈り、ひとこと挨拶に代える次第であります。
(大日蓮 平成3年5月号 61~70ページ)
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