以前、顕正会から来た女子大生の女の子たちにお話ししたところ、
「分かった♪」
と大変に喜んでくださったお話をしてみましょうね…。
茶筒
今の若い子たちはあまり知らないかもしれませんが、
日本茶の茶葉を入れる缶を「茶筒」といいます。
見たことあるかな…?
こんなやつですね。
この形をお嬢さん方は何と呼びますか?
そうです、「円柱」ですよね。
それではこの茶筒の形を知らない子供たちを10人ほど連れてきたところを想像してみてくださいね。
実験開始
茶筒を知らないお子さん方を5人ずつのグループに分け、それぞれにスクリーンに映した茶筒の影絵を見せると致します。
一方は茶筒の真上から照明を当て、スクリーンにその影を映します。
スクリーンに映し出された影はどんな形をしていますか?
そうですね、
〇です。
このグループには「これが茶筒というものなんですよ。」とお教えいたします。
一方で別のグループには茶筒の真横から照明を当てて、その影をスクリーンに映し出します。
こちらはどのような影を映し出しますか?
そうです、
ですね。
こちらのグループには「茶筒というのはこういった形のものなんですよ。」とだけお伝えいたします。
そのうえで全員を一つの教室に集めます。
そこで貴女が質問をします。
「皆さん、茶筒とはどういった物でしょうか?」
それを聞いた子供さんが嬉々として答えます。
「先生、茶筒は丸いものでぇーす♪」
「えぇ!違うよー、茶筒は四角いんだよ!!」
「うっそだー!僕が見たのは丸かったよ。」
「どこから見たらあれが丸く見えるのよぉー。私が見たのは四角だったわよ!」
…と、いつ終わるともしれないバトルが始まってしまいました…。
本当の茶筒の姿を知っている貴女はどう答えますか?
どちらも正解
これはどちらも正解なんですよね。
真上から見れば「〇」真横から見れば「□」なんです。
けど、実物をみるとそれはボール状のまん丸でもなければ、段ボールのような長方体でもないわけです。
これを理解させるためには茶筒と皆さんの目の間を遮るスクリーンを取り外してやって、実物を実際に見せてあげると全員理解し、そして納得するものですよね。
これが大事なんですね。
物事は一方からの視点のみではなく、あらゆる角度から検証していくことにより、より真実へと近づけるわけです。
お嬢さん方はまだまだ若く、その柔軟な頭と共に時間もまだまだ残っているんですから、焦らずにゆっくりとあらゆる意見を聞いて、そのうえでじっくりと柔らかい頭で考えていくことが大切だと思います。
自身の思い込みに捉われる危険
さてここで実験会場に話を戻します。
スクリーンを外して種明かしをする前の段階です。
茶筒を「〇」と答えた子も、「□」と答えた子もどちらも正解ではありますが、全体像を表現したものではありませんよね。
つまり彼らの答えは△なのです…。
けど×ではない…。
けど、これが行き過ぎると×と評価されてしまう事態も発生します。
それは何か…?
〇の影を見た子が、横からの姿も〇だと拡大解釈して「茶筒は真ん丸だ!」と言い出して譲らなければ、これは間違った解答となってしまいます。
また、長方形の影を見た子が、真上からの姿もまた四角であるとの先入観から、「茶筒は長方体です。」と答えてしまったら、これもまた△をつけることも出来なくなってしまうのです。
自分の思い込みや先入観、価値観といったものに捉われてしまって、正確な情報を教えて下さる他者の意見が耳に入らなくなってしまうと、このような結果を招いてしまうものなんですね。
あくまでも最終判断をするのは自分自身なわけですが、その前の段階においてはどこまでも謙虚に身を低くして、より多くの方の意見をお聞きすることが何よりも大切なことだと思います。
事の戒壇・義の戒壇も同じ理屈
実はこの茶筒の影絵の問題と、事の戒壇の定義は同じ理屈なのです。
すなわち、上から見た姿を日達上人が御指南された「法体に約しての事の戒壇の定義」とするならば、横から見た姿は日寛上人が立て分けた「事相に約しての事の戒壇の定義」となるのですね。
どちらも日蓮正宗における正統な戒壇義なのです。この両方をもって大聖人様の戒壇義は成立するのです。どちらか一方のみが正しくてどちらかが間違いということではありません。
日寛上人の事相に約しての捌きに固執して法体に訳しての捌きを否定するのは、あたかも茶筒を長方体だと言い張る子供と同じレベルのことなのです。
逆に法体に約しての捌きしか目に入らずに「いつでもどこでも事の戒壇」と言って憚らないのもまた茶筒をまん丸だと言って胸を張る哀れな子供と同じなのです。
事の戒壇の「事相に約して捌く」「法体に約して捌く」の具体的な話は少し難しくなるので、機会を見てゆっくりとお話ししましょうね。早く答えを知りたい方は個別にメールくださいませ。
法華講員をへこます一言は…
さて、上記で「いつでもどこでも事の戒壇」と言いましたが、このセリフを言う法華講員さんの大多数は日寛上人の事相に約しての捌き方を完全に理解してはいないと思います。
ですから、このような方と対論する顕正女子はそこを突いてやれば良いのです。
「それではお聞きしますが、戒壇の大御本尊様の一か所を指したうえで、広宣流布以前及び以後の『事・義』の捌き方はどのようにお考えですか?」
ってね。
たぶん、その程度のレベルの法華講員さんであれば返答できないと思いますよ。
そこですかさず、
「お前はバカだのぉ~。」
って言ってやれば良いのです。
ただですね、これを言うからには「昭衞さんは法体に約しての捌き方を否定しているじゃないか。」との逆襲を受けることは必定です。
その時は、
「昭衞先生もお年ですから耄碌されたんじゃないかしら…♡」
「耄碌してトンデモ発言をしたら『用いてはならない。』というのは御隠尊様も仰っていたでしょ。だから私はその発言は用いないんですよ。これでよろしくて?」
とでも返してやれば敵は戦意喪失しますよ。(私は別ですが…。)
ってなわけで本日はここまでにしておきましょうね。
コメント
管理人様こんばんは。
はじめてお邪魔します。
顕正会員さんの特に若い人たちには、
思い込みから解放されて、色々な角度から仏法を学んで欲しいですね。
世法でも仏法でも思い込みほど恐ろしい事はないですね。
あと、元々の法華講さんも、思い込み、勘違いされてる方以外といますね。
普段の仏道修行には影響ないですが、折伏破折の場では「そりゃ駄目でしょ」ってのを聞いたりする事あります。
法華講員さんは難しい事は良くご存知の方も多いのですが、戒壇に関しては混乱されてる方も少なくない気がします。
あと広宣流布もですか。
自分が顕正会員ならツッコミどころ満載って思いますね。
化石で未活動からの元顕へさんへ
ようこそおいで下さいました。ありがとうございます。
当に仰る通りだと私も思うんです。顕正会の言っていることは一部分としては正しいけれども、全体観から見ればあくまでも一部分にしか過ぎない…。それをもって全てと即断して固執してしまえば「それは間違いです!」とこちらも指摘しなければならなくなる…。
そのあたりを若い子たちに分かってもらいたいなと思ったんです。
戒壇に関しての宗内の混乱はひとえに正本堂問題に起因すると感じています。(私はこれを正本堂問題の後遺症と呼んでいますが…。)
妙信講を破門してからは戒壇について論ずることは無くなり、学会を破門した平成3年~4年頃に少し御指南はありましたが、それ以降もまたなく、平成16年~平成17年に諌暁書や対決申し入れを受けて総括する形での御指南がありました。が、これだけの露出度だけではそこに着目して勉強される方でなければ捉え違いを起こしてしまっても仕方がないのかな?とも思います。
たしかに大聖人様の仏法の全体観から見れば戒壇論は一部にしか過ぎないとは思うのですが、顕正会の歴史に幕を閉じる段階である現在においては、更なる御指南を宗内僧俗へ頂き、全体のレベルアップと共に妙信講問題への幕引きを図ることが今求められていることなのではないかと個人的には思うんですよね…。
管理人様、
ありがとうございます。
正本堂問題の後遺症
これは自分も感じます。
更なる御指南は、自分も必要性を感じます。
もう一歩踏み込んだところに解決があるのだろうと思いますが、ただ痛みも伴いますね。
これを成し得れば、顕正会は一気に崩壊するでしょうし、もちろん創価学会も大ダメージを受けます。
戒壇の大御本尊様の御下に大勢の人たちが馳せ参じて来る事でしょう。
たとえ御宗門が踏み切れなくとも、
在家や御僧侶でも出来る事はあると思います。
正本堂問題での顕正会、創価学会、御宗門の事実だけを拾い上げて時系列毎に編纂し、歴史を纏めあげる作業は在家でも十分できる事かと思います。
お互いの発言だけを捉えて正邪を論ずるまでもなく、正本堂問題は既に歴史です。
歴史の編纂だけで充分真実が見えてきます。
これをやるためには、元顕正会、元創価学会員、法華講員の協力体制が必要不可欠なんですよね。
当時の組織内ではどのように聞かされていたかというのは大変に重要な問題だと私も感じます。
以前に、元学会の方に正本堂建設中の学会内部の指導を教えて貰いましたが、「なるほど…。」と妙に納得した覚えがあります。「巧みに仕組まれているな…。」とも思いました。
当時の表の顔と裏の顔、でもって活字として残っているもの、これらを全て机の上に並べれば自然と真相が見えて来るような気がします。
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