「カネ儲けのためにペットの塔婆まで立てる(ママ)卑しさに情けない思いになりました。」
との発言が本当に理に適ったものなのか否かという事でありました。少し長くなりますが、あらゆる角度から検証していきたいと思います。 Twitterにおいての顕正会員さんたちの主張は「そもそも塔婆などは必要ない。」というところから始まっており、人間に対してでさえ必要ないものが畜生である犬や猫に必要であるはずが無いという非常に乱暴なものになっているようです。 果たして本当にそうでしょうか?大聖人様は中興入道御消息に「其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ(魚族)、その風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身に触れて畜生道をまぬ(免)かれて都卒の内院に生まれん。」 (新編御書 1434)と、御塔婆に触れた風に当たるだけで畜生は将来仏になることが約束されることを説かれています。 このように大聖人様のお言葉が存在するにも関わらず顕正会員さんはそれを認めようと致しません。それでは塔婆を建てずにどうやって畜生を成仏へと導いていくのかと質問しましたら、「題目を送るのだ。」との答えが返ってきました。 言いたいことは理解できますが、大聖人様は上記のように畜生における成仏の方途として御塔婆をあげられております。そこには自ずと成仏に至る道理もまた含んでいるわけでありまして、それを一切合切無視して単に私ども人間が題目を唱えてあげるだけで畜生は成仏するという主張はいささか乱暴すぎるのではないかと感じます。したがって私は「題目を送るだけで畜生が成仏するという文証を出して頂きたい。」と投げかけました。 当然のことながらそんなものは出てはこないだろうと思っていたのですが、なんと御講聞書にその文証はあると提示してきたのです…。 テーマが畜生なだけに…、 失礼いたしました…。
御講聞書
先方様の提示してきたのは以下の一節です。今末法に入つて、日蓮等の類いの弘通する題目は、等雨法雨の法体なり、此の法雨・地獄の衆生・餓鬼・畜生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付属し給う法雨は題目の五字なり (御書全集 ? 編年体御書 1674)この御講聞書の一節を引用したうえで、「 この御文みたら、お題目が畜生に届くのは、明らか。塔婆が必要とは、仰せられてない。 」と自身の御意見を述べられたのです。 一見するともっともらしく思えるかもしれませんが、そもそも御講聞書のこの「等法雨の事」の部分は法華経薬草喩品第五にて説かれる「三草二木の譬」に関して述べられている箇所です。かいつまんで申せば「仏様の慈悲は一切衆生に平等に降り注いでいるが、衆生の機根の違いによりその結果には各々差別がある。」というのがこの部分の意味するところであり、単に「人間が題目を送れば畜生も成仏する。」という意味ではありません。 そのうえで提示して下さった箇所を精査してみると面白いことが確認できます。 以下は平成新編御書による当該部分です。
今末法に入りて日蓮等の類いの弘通する題目は等雨法雨の法体なり。此の法雨、地獄の衆生・餓鬼の衆生等に至るまで同時にふりたる法雨なり、日本国の一切衆生の為に付嘱し給ふ法雨は題目の五字なり 。 (平成新編御書 1841)句読点などの些細な違いはいいとして、問題は「 地獄の衆生・餓鬼・畜生等 」と「 地獄の衆生・餓鬼の衆生等 」との表記の相違ですね。 顕正会の彼が今回この部分を文証として提示してきたのも「畜生」との言葉があったからでありましょう。しかしながら平成新編には「畜生」の言葉は無い…。「・」と「の」、「畜」と「衆」は字の雰囲気だけは似ていますから、写本の段階でどちらかが間違えており、それをそれぞれ別の古写本を元に御書の編纂をしたがゆえにこういった相違点が出てきてしまったのではないかと私は想像いたします。 いずれにしても日寛上人も依義判文抄に「明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る。」と仰せになっているように、単に「畜生」との言葉がそこに出ていたからといってそれだけで「この文は畜生の成仏を説かれているのだ。」と決めつけるのではなく、道理の上から本当にそこには畜生の成仏が説かれているのか?ということを読み込んでいかなくてはならないかと思います。 そのような観点から再度見ていくならば、この引用部分が「題目を送ると畜生は成仏できる。」という根拠にはなり得ないという結論に達するのです。
三草二木の譬えとは
三草二木の譬え この譬えは、仏様の実相は本来一味ですが、衆生の境界に差別があるために受ける功徳が異なることを示された上で、一仏乗によって、すべての衆生が平等に利益されることを説かれたものです。 『薬草喩品』より三草二木の譬え 「世界中の山や川、谷や大地には、様々な草木が生い茂っており、名前も形も異なっています。 雨雲が遍く空を覆い、雨が一時に等しく降り注ぐと、その雨は、一切の草木に行き渡り、高木、低木、大・中・小の薬草それぞれに応じた潤いをもたらします。草木は、それぞれの持つ特性に従って、雨による潤いを受け、生長して花果を結びます。草木は、同一の大地に生じ、同一の雨に潤されますが、名前や生長していく姿には、それぞれ差があり違いがあるのです。 仏様の教えもまた同じです。 仏様が世の中に出現されるのは、大きな雨雲が涌き起こるごとく、説法が一切の人々に行き渡るのは、雨雲が遍く空を覆い尽くすごとくであります。 そして、『私は仏であり、未だ仏道に至らない者を導き、未だ解了しない者を解了せしめ、未だ仏道に安んじない者を安んぜしめ、未だ涅槃に至らない者を至らしめます。私は今世・来世を見通した一切を知る者、一切を見る者にして、仏の道を知り、仏の道を開き、仏の道を説く者であります。皆この法華経を聴聞するためにここに集まりなさい』と説かれました。 仏様は、集まり来たった十界の衆生に機根の差があることを観ぜられて、それぞれに相応して種々に法を説いて衆生を歓喜せしめ、善根を修めさせます。説法を聴聞した衆生は、今世は安穏にして後生は善所に生まれ、ようやく仏道に入ることができるのです。 それはあたかも大きな雨雲が、一切の草木に雨を降らし、それぞれの草木に応じた潤いを与えて平等に生長させるようなものです。 仏様の説法は、一地・雨と同じく、ただ一乗真実の教えを、一切衆生に平等に説くことにあります。 しかし、聴聞した人間・天上・声聞・縁覚・菩薩の衆生は、仏様の教えの通りに受持・読誦の修行をしても、各々が功徳を別々に受け止め、仏様の教えが一相一味であることを知りません。種々の草木が自らの上中下の特性を知らないように、五乗七方便のそれぞれの衆生もまた自身の種・相・体・性を知らず、ただ仏様のみが五乗の因果と差別相を知り、衆生の心相も諸仏の教法も一相一味無差別であることを覚知されているのです(趣意)」(法華経 二一五㌻) 譬えの中に示されるように、大きな雨雲は仏様、雨とはその教え、草木は一切衆生のことです。雨雲が平等に潤いの雨を降らせるとは、一切衆生を仏様の悟りの境界へ導く一仏乗たる法華経に譬えられたものです。 また種々の草木は、天台大師の『法華文句』に依れば五乗のそれぞれに当たり、小さな薬草が人間・天上、中くらいの薬草が声聞・縁覚の二乗、大きな薬草が蔵教の菩薩、低木が通教の菩薩、高木は別教の菩薩を譬えています。 これら五乗の衆生は、草木が等しく大地より生ずるのと同様に、各々が本来等しく仏性を具えています。ですから、機根に応じて一仏乗の法を様々に聞いたとしても、草木の性質に関わらず潤すところの雨が一味であるように、衆生の機根に五乗七方便の相違があったとしても、仏様は大慈悲の上から実相一味の法を施し平等の利益を与え無差別の義を示され、究竟して一切衆生を仏様の境界へと至らしめるのです。 (大白法 平成26年6月1日号)このように三草二木の譬えとは「仏様の仏力・法力は すべての衆生に平等に利益 をもたらす。」ということを説かれているのであって、それを受ける側の「信力・行力」の機根によってその結果は程度に差が生じてくるというものでもありましょう。 Twitterにおける顕正会員さんの思惑は「 今末法に入りて日蓮等の類いの弘通する題目は等雨法雨の法体なり。 」の部分を大聖人様の仏法を信仰する者の唱える題目と認識されているようですが、これはさにあらず法華経文上における釈尊の弘める題目に対する文底の題目すなわち末法の御本仏たる日蓮大聖人の唱える題目という意味合いです。 ここまで説明すれば彼の主張することが微妙に的を外れていることがご理解いただけるかと思います。 ここでペットの問題に立ち返って考えてみましょう。犬や猫は心を持つ動物です。すなわち有情に属するわけですが、悲しいかな複雑な物事の道理などは理解できません。喜怒哀楽の感情は持ち得ても仏様の存在を認識することも、更に進んで自らの意思で正しい信仰をたもつなんてこともあり得ないわけです。当然のことながらお題目を唱えるなんてこともありませんよね。 仏様の慈悲の雨は彼らにも平等に降り注いではおりますが、彼らがそれらを享受して成仏という結果を自力で勝ち取ることができるでしょうか? ここにペットの成仏に関する問題の一番のポイントがあるのです。
因・縁・果
顕正会員さんも朝夕の勤行で方便品を読誦していると思いますが、その最後に「如是相・如是性・如是体…。」と三度繰り返す部分がありますね。その中の「如是因」と「如是果」の間には「如是縁」とあります。 ここが大事なのです。原因と結果の間には“縁”が存在するのです。つまり、いくら過去において積んできた罪業が重いものであって、その苦しみを結果として受けなくてはいけない宿命を持って生まれてきたとしても、この「縁」に触れることによって「結果」は違う方向へと変化するのです。 この道理が無ければ、地獄界の人は地獄の境涯のまま死んでしまいます。餓鬼界の人は餓鬼界のまま、畜生界の人は畜生界のまま、修羅界の人は修羅界のままです。 仏様はここに大慈悲をもって「御本尊様」という究極の「縁」を遺されました。私たち一切衆生はこの「御本尊様という縁」に触れることによって過去遠々功からの謗法罪障を消滅させ、成仏という結果を得ることができるわけですね。 ただここで一つ問題が発生してきます。御本尊様には仏力・法力が具わっておりますが、それを理解し、かつ信じたうえで自らお題目を唱えるという「能動的な信と行」があってはじめて成仏という結果が得られるのであって、御本尊様の意義も理解できず、信じることもかなわず、お題目もまた唱えることは不可能な犬や猫などの畜生が果たして人間のように成仏は出来るものなのでしょうか…。塔婆供養
このように自らの力だけでは最終的な成仏への道を切り開けない者たちに対して、それを手助けするという意味が塔婆供養にはあるのではないでしょうか。 そもそも故人に対する塔婆供養も亡くなった人は自らお題目を唱えることは出来ないがゆえに生きている私たちがお塔婆を建立して読経唱題していくところに、その功徳が故人へ回向されていくのではないかと思います。犬や猫もまた自発的には何ら功徳を積むことができないがゆえに塔婆供養という手段が取られ、兜率天を経由した上で後生は善きところに生まれ合わせ、そして今度は自発的な信行をもって成仏という報いを得ていくのでしょう。 塔婆供養に関しては以下のページに詳しく解説されていますから併行して読んでいただければと思います。塔婆供養
日頃、私達はお彼岸・お盆・あるいは故人の命日などにお寺へ参詣し、塔婆を建てて追善供養を行っていますが、もし、なぜ塔婆を建てて供養をするのか、と聞かれた時に、はっきりと答えられる人は案外少ないのではないでしようか。たしかに何も知らずに塔婆を建...
コメント
本日は地下鉄サリン事件が発生した日です。
邪教団体のテロリズムを防止できなかったことは、日蓮正宗や顕正会、そしてそれよりも(政治的に)大きな権力を持っていた創価学会にも責任はあります。
特に創価学会にあっては、池田先生をVXガスで襲って来た恨みがあるはずですので、公明党の政治力を使って、何としてでもその後継団体を潰して欲しいものです。
私が顕正会にいた時、「アレフ」信者を折伏しに行ったという武勇伝を聞いたものですが、今は法華講も顕正会もやらないのですな。
もう24年も経つのですね…。
私が顕正会に入ったのはその前年の夏でした。あの事件があってから宗教に対する偏見はより一層激しくなったような気がします。
邪な価値観で行動すると如何に恐ろしいことが起きるかという教訓でしたね。
最近は顕正会も彼らと同じ類に見えてきます。
私たちがもっと頑張らないといけないんでしょうね…。お互いに頑張りましょう。