あなたの知らない異体同心の世界

エッセイ

本当に僧俗が異体同心できたらどうなるのか…。

それはもう凄いことになるんですよ…。

神風吹きまくり…、とでも表現すれば何となくイメージが湧きますでしょうか…、

 

んっ?余計分からん…?

そうですよね、これは実際に体験してみないと…、その姿を思い描くことさえなかなか困難なことでしょう。

それでは少しずつ解説していきましょう。

 

1+1は2…じゃないんだよ。

 

これは世間的な組織…、つまり会社や商売上の仲間うち、または家庭においても言えることなのですが、同じ目的を持つ人間が二人以上集まってその目的に向かって動き出すとき、それぞれの力の和(足し算した力の総計)がその組織の実力になる…、と普通は考えてしまうものですが実際にはそうではないんです。

 

たしかにモチベーションが上がっておらず「言われたことだけをやっておけばよい。」とか「私の責任の範囲はここまでだから、それ以上はやんないよ。」なんて了見の人が集まればそうかもしれませんが、目標の意義を明確に自覚し「何としてでもそれを成し遂げよう!」という気持ちをもって仲間と協力しながらそれを遂行しようとする人たちが二人以上集まった場合、そこには単なる足し算ではなく掛け算的な結果が生まれるものです。

 

つまり、異体同心できている組織においては1+1が3にも5にもなっていくのです。

 

先にも申し上げましたように、これは何も信仰上の組織のみに当てはまることではなく、営利を目的とする会社においてもそうなんですよね、ですからそれなりに社会人としての経験を経た壮年層においてはご自身の仕事場に当てはめて考えてみると意外としっくりと来るのではないでしょうか。

 

また、この原理は家庭にもそのまま言えることです。一家の柱たる御主人と奥さんの気持ちが一つになって「この家庭を明るく幸せな場にしていきたい!」と動き出した時、そこには自然とお互いを思いやる言葉や振る舞いに満ち溢れ、結果として円満な家庭が顕われてくるものではないでしょうか。

 

御主人が帰宅前に玄関前で深呼吸して「よっしゃ! 帰るぞ!」と気合を入れなければ玄関ドアを開けられない雰囲気の家庭では円満な結果を求めるのはやはり難しいと思うのですよ…。

 

話がそれてしまいましたが、異体同心とは一つの崇高な理念にそれぞれの人が自身のベクトルをピタッと合わせ、そして互いに協力し合いながらそれの完遂を目指す姿であり、これが現実のものとなった時、その結果はそれぞれの人が持っている力を足した上に更に掛け算的な結果をもたらすという実に不可思議な原理だと思うのです。

 

この原理に気づいているか、いないか…。

 

日蓮正宗における折伏誓願というのは、それに真剣に取り組んでいくことによってこの不可思議な原理を体得させるためにある…。

 

私はそう思っています。

 

僧俗間の異体同心

 

会社組織や家庭というのはあくまでも在家しかおりません。そのような場でも異体同心の原理は働くわけですが、これが御僧侶と在家信徒という間での異体同心が出来たときはどうなるのか?

 

これこそまさに凄い現証が出てくるのです。

 

冒頭私は「神風吹きまくる。」と表現しましたが、まさにその姿が顕われます。その組織は完全に諸天から守られてあらゆる諸難は排除され、御本尊様からはこの道を進みなさいと自然と道が指し示される…。何をやっても上手くいきすぎる…。風速何十メートルという追い風が背中を押しまくってくる…。

 

このような現証が目の前に忽然と顕われてくるんですよね。

 

この原理を実際に体験した時、人はあることに気づきます。

 

広宣流布したあとの姿ってこれじゃない?

 

そうなんです…。そういった眼で改めて三大秘法抄の戒壇の御文を拝すると、ちゃんとそこには大聖人様が書きとどめられているんです。そこを見破ることが出来るか否か…。それがこの信心を全うできるか否か、ひいては成仏できるか否かの分かれ目になってくるのだと私は強く感じます。

 

 

 

 

 

顕正会版日寛上人本尊は本物とは紙質が相違します。

顕正会版は現代の製法で作成される紙を使用しています。

昭和30年代当時の紙を再現するところまでは、さすがの浅井さんでも不可能だったのです。

 

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