戒壇建立の御遺命は国家救済の秘術である

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何を今さら…、との声が大宮方面から聞こえてきそうなのではありますが、これは750年前から日蓮正宗内で生き続けている考え方であり、当然のことながら顕正会が「御遺命破壊」だと謗り始めた半世紀前から現代に至るまで心ある僧俗は表には出さなくてもその概念はしっかりと胸中に刻み込んでいるものでございます。

それに関しては後日お話しするとして、本日は一切衆生を救済する目的である「一天四海本因妙広宣流布」の御遺命と、国家救済の秘術たる「戒壇建立」の御遺命の二つはそれぞれ目的は違うものであり同列に論じるべきものではないこと。

また戒壇建立の条件たる「王仏冥合」とは何なのかということに関してお話ししてみたいと思います。

個人の成仏と国家の成仏

先日の日亨上人のお言葉には「宗祖の念頭には、個人の佛教に非ず、久遠本佛の大慈悲は国家の佛教なる故に、政治と信仰を一体としなくては国家の荘厳浄土化は出来ぬと思って居られた。」とあります。

そもそも仏様と呼ばれる方は大聖人様をはじめインドのお釈迦様においても「一切衆生の救済」を願いとされています。そのための法を説かれたのが仏教であるわけですが、大聖人様は個人の成仏は当然のことながら国家スケールでの救済の方法も声を大にして叫ばれておりました。その最たるものが立正安国論でありますし、御大会や御会式において奉読される「申し状」も当に時の為政者に向かってこの「国家救済の法を用いて日本の国土を浄土化せよ。」との諫めに他なりません。

このように個人の成仏と国家の成仏の二つを目的としてそれぞれ存在するのが「一天四海本因妙広宣流布」の御遺命と、国家救済の秘術たる「戒壇建立」の御遺命なのです。

ここで問題なのは、双方とも「広宣流布」という言葉が出て来るがゆえそれぞれ目指す目的は別であるのに双方を混同して相手を批判してしまうという行動が発生しがちのようです。

すなわち「顕正会は国立戒壇ばかり言って国内の広宣流布しか着目していないが、大聖人様は一閻浮提広宣流布を御遺命されているのである。だから顕正会は間違いだ!」と主張する法華講員さんがこの10年ほどの間に相当多く見受けられるようになりました。

しかし相手の顕正会員さんからしてみれば、「えっ?なにそれ?別に我々はそんなことを言ってるんじゃないんですけど????宗門の戒壇論がメチャクチャだと言われているのは本当だったわ…。」と、かえって御宗門への猜疑心と顕正会への未練を増長させる結果となってしまっているように私には感じます。

個人の成仏と国家の成仏とはその目的が違うものと認識して顕正会員さんと対峙するのが大切ではないかと思うものです。

王仏冥合

王仏冥合とは「為政者たる国主がこの信仰をたもつことにより、この仏法の道理が政治に反映すること。」といったところでしょうか。日亨上人はこれを「政治と信仰の一体化」とそのものズバリの表現をされております。

何とも簡潔で分かりやすい表現だとは思うのですが、当にこれこそがその後の問題となってくるわけです。

日亨上人が間違っているわけではありません。大聖人様のご教示はその通りでございますし、これこそが戒壇建立の御遺命の肝でもあるわけです。ここを外して戒壇建立も仏国土もないわけです。けれども現代の日本ではこれを表立って宣揚すると大変なことになることは常識ある者であるならば誰しも理解できるはずです。

昨今も安倍元総理が靖国神社を参詣したことがニュースになっていましたが、政治と宗教の関係に現代は内外問わず非常に敏感になっております。このような環境下で正論とはいえ「王仏冥合」を正面切って宣揚し布教していくことが良いのか否か…。その問題に一応の結論を出され大きく舵を切ったのが日達上人が為された昭和45年の御指南であったと思います。

これに関しては少し長くなるので続きは次回にしたいと思います。

おまけ

冒頭のBBクイーンズの画像が記事と何の意味があるのか…。

記事とは全く関係ございません。

私がTwitterでアイコンとして使用しているシルクハットと髭のイラストはこの方をイメージしたものですと言いたかっただけです。(現在は使用しておりません。)

素顔のままではイメージが固定化しているもので、変装して言いたいことを言わせてもらおうかと…。

そのうちに「インチキおじさん」と呼ばれそうですね。(笑)

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