桜(国家成仏編)

異体同心

お山(大石寺)の桜も満開となりました。(この記事を書き始めた当初は満開でした…。今どうかは本日確認してきます。)

以前、第56世日應上人の「花の性」の御指南をもとにして、個人個人の胸中の仏界が開く道理を桜の開花に譬えてお話しさせて頂きました。

実はこの道理は個人の成仏にとどまらず国家成仏にも当てはまるものだと最近になって気づきました。今回お山の満開の桜の下で思索にふけり、その辺りが少し整理出来ましたのでお話しさせて頂けたらとおもいます。

国家成仏の縁とは

個人成仏の縁は御本尊様であることを以前はお話ししましたが、それでは国家成仏の縁とはなんでしょうか?

譬へばよき火打ちとよき石の角とよき火口と此の三つ寄り合ひて火を用ふるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払うべき者なり。

御書 1314頁

すなわち僧俗一致・異体同心出来た時に、有情たる私達正報の姿が非情たる依報の国土に反映し、国家としての成仏もそこに完成するということだと思います。

この法華初心成仏抄に明かされた道理を更に詳しく説き明かされたのが三大秘法抄の御文だと思われます。

顕正会の主張もこのことである

顕正会員の口からは「国立戒壇」という言葉しか出てこないがゆえ、「そんなものは御書にはない。」と破折される方を散見されますが、彼らが言わんとしていることは当にこの「国家成仏」のことなんですね。

聖祖が立正安国に弘法究竟の御主意をおかせ給ひしは一切衆生成仏の枢要が国家成仏にあり真浄国土の顕現に於て初めて事の寂光土を御見出しなさることができるとなさるるが故である。

 個人生活の完成は国家的生活と離れてある訳にはいかぬのであつて、密接不可離である。個人生活と国家生活とは一を以つて貫き、その完成は二あつて二でない。此れ聖祖が特に国家成仏を強調遊ばされし所以である。

 如何に個人が正当且つ完全に生活しやうとしても国家社会が然らざればしかくあることはできないのである。此れ与同の罪の然らしむるところであつて、その罪を免れざる限りできないことである。


 故に聖祖は立正安国論に帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思はば先ず四表の静謐を祈るべきものか、と仰せられ又国家を祈りて須く仏法を立つべしとも仰せられたのである。

 個人生活の完成は国家生活の完成によつて見出される。此れは此の二者が無始無終に共にあるといふ信念の上に見らるるのである。而して此の境地に於てこそ、国家が主であつて個人が従となる、即ち国家的生活が先主であつて、個人の生活は後従となるのである。此は法華不信の輩の、夢にも思はざるところである。

 

日淳上人全集114

上記は日淳上人のお言葉ですが、顕正会員さん達の主張したいことは当にこれであり、この国家成仏の理念が宗内から消滅することを憂いて声を上げているわけです。櫻川さんのHPにて昔からこの部分は紹介されております。

そこを見誤ると破折にもならない単なる口げんかで終わってしまうのです。

顕正会諸氏の想いは立派だと思います。

ただ、国家成仏の縁は「僧俗一致・異体同心」が条件なのであり、「僧」の存在がない顕正会では「国家成仏」は理のみで事に顕すことは永遠に不可能だということを申し上げて本日は終わりにしたく思います。

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