日寛上人 戒壇の「事」「義」 3 (依義判文抄)

「事の戒壇」「義の戒壇」

前回までに戒壇の「事」と「義」を立て分ける基本的考え方に関して述べてきたが、彼らが提示してきた各御指南の検証に入る前に一つだけ日寛上人の御指南を確認しておきたい。

三大秘法口決に「三大秘法の依文は神力品なり。」とあるように法華経神力品に三大秘法は説かれている。当然のごとく戒壇の意義もまたそこに詳しく説明されている。そして日寛上人は神力品の中の「所以者何。當知是処。即是道場。」(所以は何ん。當に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。)の文を以て「本尊所住の処、義は戒壇にあたる。」とされるのである。

そしてこの文は戒壇の大御本尊様の御在所を取り上げて広宣流布以前以後を比較した時の「事」「義」を立て分ける物差しそのものであり、日寛上人の戒壇に関する御指南のあらゆるところに顔を出してくるキーワードなのである。よってこの依義判文抄に関して書いてみたい。

依義判文抄における「事」「義」

 第七に神力品の「爾時仏告上行」等の文

 

 神力品に云わく「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽くすこと能わず。要を以て之れを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。是の故に汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし。所在の国土に、若しは受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すること有らん。若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何。当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう已上

 

 今謹んで案じて曰く、「爾時仏告上行」より下は是れ結要付嘱なり。文を四と為す。一に称歎付嘱、二に「以要言之」の下は本尊付嘱、三に「是故汝等」の下は題目勧奨なり。四に「所在国土」の下は戒壇勧奨なり、亦三と為す。一には義の戒壇を示す、二には「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧む、三には「所以者何」の下は釈なり

 

(中略)

 

 四に「所在国土」の下は即ち戒壇勧奨なり。文を亦三と為す。初めに義の戒壇を示し、次に「是中」の下は事の戒壇を勧め、三に「所以者何」の下は釈なり。

 初めに義の戒壇を示すに亦二と為す。初めに本門の題目修行の処を示し、次に「若経巻」の下は本門の本尊所住の処を明かす。故に知んぬ、本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり故に宗祖の云わく「霊鷲山とは御本尊並びに南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処を説くなり」云云。又云わく云云

 次に「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧むるなり。三大秘法抄十五三十一に云わく「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」云云。「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、応に是れ富士山なるべきなり。録外の十六四十一に云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」云云

(六巻抄 101~104  顕正会版 100~104)

 

 

 

 

 

本尊所住の処、義の戒壇

これは依義判文抄の一節であるが、ここに日寛上人の事相に約しての戒壇の「事」「義」の考え方が述べられている。すなわち「本門の本尊所住の処」は義(意味)は戒壇にあたるということである。これは言葉を換えれば「広宣流布以前で未だ御遺命の戒壇建立がなされず戒壇の大御本尊様は蔵の中におわしましても、その蔵は本門の戒壇にあたる。」ということなのである。

日寛上人三大秘法開合の相の御指南

この「本尊所住の処は戒壇にあたる。」という考え方は一大秘法を三大秘法に開く一番初めの段階ですでに登場する。

 問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何。

 答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義と成る。此の六義散じて八万法蔵と成る。

(六巻抄 82 顕正会版 82)

妙法の五字を図顕すれば、即ち是れ本門の本尊なり。本尊所住の処は即ち是れ戒壇なり。本尊を信行するは、即ち是れ本門の題目なり。

(報恩抄文段 御書文段 465)

若し一大秘法と云うは即ち是れ本門の本尊なり。此の本尊所住の処を本門の戒壇と名づけ、此の本尊を信じて妙法を唱うるを本門の題目と名づく。故に分かちて三箇の秘法とするなり。

(法華取要抄文段 御書文段 539)

上記のように日寛上人は「本尊所住の処が戒壇である。」とし、そのうえで「正しく事の戒壇とは広宣流布の暁に塔(御遺命の戒壇)を建立することである。」と御指南されている。ここで顕正会員さん達に考えて頂きたいのは、広宣流布以前においては戒壇の大御本尊様の御在所が直ちに根源の本門戒壇とされ、そこに詣でることが大事とされている事実である。

最後にもう一つ分かりやすい御指南を挙げておく、

 第二に法師品の「在々処々」等の文

 法師品に云わく「薬王、在々処々に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に塔を起て」等云云。応に知るべし、「若説、若読」等は本門の題目なり、「若経巻」は即ち本門の本尊なり、「所住之処、皆応起塔」は本門の戒壇なり。中に於て「所住之処」は義の戒壇なり、「皆応起塔」は事の戒壇なり。

(六巻抄 85 顕正会版 85)

これらを見るとき日寛上人の御指南は冒頭の神力品の文と些かの狂いもなく一致する。そして日寛上人はこの「本尊所住の処、義の戒壇」の物差しをもって事相に約した立て分けを行っているのである。

題目修行の処、義の戒壇

顕正会では教えられないことではあるが、「題目修行の処、義の戒壇」に関して述べたい。実はこの考え方こそ嫡々書写本尊安置の処が「義の戒壇」とされる根本的な理由であり、上記戒壇の大御本尊所住のところの「義理」とはその物差しが全く違っているのである。この物差しの違いを認識せずに一括りに扱うがゆえ最終的に矛盾をきたすのである。

当体義抄

 問ふ、妙法蓮華経とは其の体何物ぞや。答ふ、十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり。


 問ふ、若し爾らば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云はるべきか。答ふ、勿論なり。

(新編御書 692)

 

 

正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり。能居・所居、身土・色心、倶体倶用の無作三身、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体、自在神力の顕はす所の功能なり。敢へて之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。

(新編御書 694)

 

上記は当体義抄の有名な一節であるが、素直にこの仏法を信じてお題目を唱える人は我が身に具わる仏性が仏性本来の働きを為し、その身は本門の本尊・本有無作の当体蓮華仏と顕れ、その人所住の処は戒壇となるということである。

これがいわゆる「題目修行の処、義の戒壇」の根拠であると私は拝するものである。この解釈が日寛上人の意に沿うものであることは以下の当体義抄文段を確認するとより明確になるかと思う。

 

当体義抄文段

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人」とは本門の題目なり。「煩悩・業・苦乃至即一心に顕はれ」とは、本尊を証得するなり。中に於て「三道即三徳」とは人の本尊を証得して、我が身全く日蓮大聖人と顕わるるなり。「其の人の所住の処」等とは戒壇を証得して、寂光当体の妙理を顕わすなり。

(御書文段 628)

 

この御指南を拝すれば、この法を信受することにより我が身が仏となり、ゆえにその住する所が戒壇の意義を持つという道理が明らかになっている。よって依義判文抄に述べられるところの「題目修行の処、義の戒壇」という結論を導くのである。これと同様の御指南は第32世日教上人の御指南にも見てとれる。

末法証得抄

此の本門の戒壇に事の戒壇と道理の戒壇と云う事あり。事の戒壇とは、直ちに本門の御本尊の住処の事なり。今は道理の戒壇に約するなり。謂く我身の全体本門の本尊なり。其の人所住の処あに本門の戒壇にあらずや。既に本門の戒壇を証得する故に常寂光土なりと矣

(末法抄得抄 3ページ)

 

上記御指南を拝すれば「本門の本尊(そのもの)の所住の処」の義理とは違った観点からの義理を説かれている。すなわち我が身が本尊を証得するがゆえにその住処は戒壇だという道理(義理)なのである。

この二つの義理をよくよく理解した上で日寛上人の戒壇の立て分けを拝読していくと一切の矛盾を生ぜずにすべてが繋がってくるのである。

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