本門の本尊に打ち向かい唱える題目が本門の題目であり、その場所を本門の戒壇という。
三大秘法をごくごく単純に説明すると上記のようになります。
実はこの公式は日蓮正宗における三大秘法の捉え方全てにおいて通じるものであり、日寛上人の御指南もその例外ではありません。またその他の御歴代御法主上人の御指南もまたこの公式にピタッと当てはまってくるのですね。
先ずはこれを頭に叩き込んだうえで話を聞いていただけたらと思います。
本門戒壇は広宣流布の暁まで存在しないという錯誤
浅井さんのみならず正本堂の問題が起きるまで表題のように認識している人は多かったのではないかと思います。
ゆえに池田大作さんも「大聖人様でさえ為しえなかった本門戒壇の建立(御遺命の戒壇建立)を私が為したのだ!」と主張されたのでしょう。
しかしながら前回の記事にてご理解いただけるように、三大秘法とは戒・定・慧の三学を「本門の戒壇」「本門の本尊」「本門の題目」の三つに仕立て直したものであり、戒・定・慧の三学はその一つが欠けても成り立たず、それぞれが関わり合いながら仏道を証得せしめるように、三大秘法もまた一つとして欠けることは許されないわけです。仮に「広宣流布以前であるがゆえ、本門の戒壇は存在しない。」と本門の戒壇が欠けてしまうというならば広宣流布以前の一切衆生は一人として成仏は叶わないわけですよね。
前回の復習になりますが、
日寛上人は依義判文抄において「凡そ戒定慧は仏家の軌則なり、是の故に須臾も相離るべからず。」(六巻抄 85ページ)と申されていますし、また大聖人様も四信五品抄に、「在世滅後異なりと雖も、法華を修行するには必ず三学を具す。一を欠いても成ぜず。」(新編 1111ページ)
と仰せなのですから、たとえ広宣流布以前であり御遺命の戒壇これなしといえども、本門の戒壇に相当する場所は存在しうる。ということなんですね。
この点をまずは認識しなければならないのです。
その上から顕正会では現在はどうやって教えているかと確認してみると、
ただし、この本門戒壇は一国の総意に基づく国家的な建立であるから、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の暁でなければ実現できない。御在世には未だその時いたらず、よって未来国立戒壇に安置し奉るべき「本門戒壇の大御本尊」を二祖日興上人に付し、この大事を日興上人に御遺命されたのである。
(基礎教学書 289ページ)
と、こうあります…。冒頭の「本門の本尊に打ち向かい唱える題目が本門の題目であり、その場所を本門の戒壇という。」との大聖人様の三大秘法の基本的考え方を腹に落とし込んでいる者ならいざ知らず、初心の者がこの浅井さんの文章を読んだならば、「広宣流布以前は本門の戒壇というものは存在しえない。」との誤解を持つのではないでしょうか?
実際にそのように思い込んでいる顕正会員さんは多いのではありませんか?
義理の戒壇
ここにおいて「義理の戒壇」という概念がでてくるのですね。すなわち、戒壇の大御本尊様を御安置すべき戒壇堂建立は広宣流布の暁であり、それは将来に属するわけですが、戒壇の大御本尊様おわします場所において本門の題目を唱えるならば、義理において(意味合いにおいて)はその場所は本門の戒壇と認識すべきであり、ここにおいて三大秘法は欠減なく成就するのである。ということです。
この考え方から導き出される公式が「本門の本尊に打ち向かい唱える題目が本門の題目であり、その場所を本門の戒壇という。」であり、日寛上人の御指南もすべからくこの基本から外れるものはありません。
これは有名な日寛上人の御指南ですね。原文はこのようになってまして少し現代人には読みづらいので、前回紹介させて頂いた「御開扉を給わるに当って」の前ページに載っていた書き下し文で確認してみましょう。
未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊存する上はその住処は即ち戒壇なり、その本尊に打ち向かい戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱うれば即ち本門の題目なり。志あらん人は登山して拝し給え。
顕正会ではこの一節を「正本堂は事の戒壇にあらず。」という文証として利用するのですが、見る観点を変えると「広宣流布以前における戒壇の大御本尊所住の処は御遺命の戒壇ではないが、義理において本門の戒壇であり、その地に住して唱えるところの題目は本門の題目となり、ここにおいて三大秘法は成就するのである。」と拝せるわけです。
これすなわち冒頭の公式そのものですよね。
そして日寛上人は「志あらん人は登山して拝し給え。」と御開扉を受けることを勧めているわけです。
御開扉とは三大秘法を受持した極めて尊い姿
ここで改めて富士の記事の題名を確認してみてください。
日寛上人の仰せに云く 三大秘法いま大石寺にあり
凄いこと言ってますよね…。けどこれってそのものズバリではないでしょうか?
本門の本尊に打ち向かって本門の題目を唱え、その場所が本門の戒壇となるのが三大秘法なのですから、御開扉の瞬間というのは当に三大秘法をその身に持った姿を顕しているわけです。
大聖人様の御心に叶わぬと顕正会では言いますが、バカを言いなさんなってんです。これこそまさに大聖人様が目指された三大秘法受持の姿そのものではありませんか。
顕正会員諸君は今一度
の文字を目に焼き付けて、本当にこのままで良いのだろうかと自問自答をしてください。
とりあえず本日はここまで
コメント
トチロ~ 様
ポリ銀です。いつも勉強させていただいております。
拙ブログをリンクしてくださり、ありがとうございました。
今回の記事は、特に私の心に突き刺さりました。
戒壇といえば、建物を連想してしまう癖がついていましたが、本門の本尊に向かい本門の題目を唱える所という説明が、戒壇の意味を改めて解らせてくれたように思います。
自分のブログでも引用させていただきたいと思います。
ありがとうございました。
ポリ銀さんへ
こちらこそいつもお世話になっております。
私が日蓮正宗に移ってきた当初に「事の戒壇・義の戒壇」の定義であーでもないこーでもないと悩んでいた時にこれを教えてくれたのが日蓮正宗の御僧侶でした。
「えっ?」と思い、その公式に当てはめてあらゆる戒壇の御指南を読み返してみると、すべからくこの考え方にピタッと一致したことしか言われていないんですよね…。
「正しく事の戒壇とは」と日寛上人が申される「御遺命の戒壇」は更に次のステップの別次元のお話であり、まずはこの「義理における戒壇」を正しく認識することが大聖人様の仏法の何たるかを理解するには必要なのではないかと私は思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
nsh様
コメント拝見いたしました。
後程メールさせて頂きます。